マルシェ
大学サロン

サロン ローマ編

 

サロンちらしローマ版ローマ講義風景

 

 

しんゆり大学サロン

講座「映画で巡る世界の街」

講師:東京都市大学名誉教授 平本一雄

日時:2016年2月20日(土)17時開場、18時開講(90分講座)終了20時

場所:レストラン「Café TAMAE」

主催:一般財団歩人川崎新都心街づくり財団

 

【講義要旨】

まず、最初にグレゴリーペック、オードリーヘップバーン主演の映画「ローマの休日」(1953年公開アメリカ映画)のロケ現場がローマのどこにあるのかを地図の上で説明があり、それらが歴史的にどのように作られていったのか、順に解説がなされた。

 

1.帝国の首都としてのローマ

BC753にローマは建国され、当初、7つの丘にローマ人が集落を形成した。丘の下の低地の灌漑がなされ、市民が集まるフォーラム(広場)や元老院、神殿、バシリカなどが整備され、フェロロマーナ(Foro Romano :ラテン語)として都市生活の中心となった。隣接するパラッティーノの丘には皇帝の宮殿が多く建設されていったことから、この地名をとって宮殿=パレスの言葉が生まれた。BC510に共和政となり、ジュリアス・シーザは都市計画を策定し建築の高さ規定や数多くの公共施設の建設を行った。BC390のガリア侵略の苦い経験から、セルウイウス帝の時代に都市を取り巻く城壁が建設され、この城壁は今もテルミニ駅の横に残っている。アウグスツス帝の時代には、人口は100万人に膨張し都市開発によりカンポ・マルッティオ地区へと市街地は拡大していった。BC1〜2世紀のトラヤヌス帝の時代には、帝国の領域は最大のものとなり、パリ、ロンドン、ウィーンなどの植民都市が建設されていった。帝国拡大と共に都市ローマも拡大し、AC270には拡大した市街地を取り囲むアウレリウスの城壁が建設された。この城壁は現在もローマの旧市街を取り囲む城壁として都市景観を特徴づけている。

ローマは建築・土木の分野で多くの遺産を残していった。これらの建築様式には、

矩形と円形・球形の2種類がある。矩形の建築はギリシャを古典として模範にし、柱と梁のプロポーションの「オーダー」を重要視し、その後、ラテン語のClassic(古典、由緒あるの意見)は古典主義を表す言葉としてルネッサンスなど後世に影響を与えるものとなった。しかし、ローマでは、ペルシャ、中東の流れをくむ円形・球形の空間もアーチやドーム構造を用いることによって生み出されていった。これらの建築・土木技術の発達は様々な種類の建築を誕生させた。戦争で勝利した記念碑として凱旋門が建設された。道路は、「すべての道はローマに通ず」として幹線道路の総延長はアメリカ高速道路以上のものが整備された。水道は1世紀半ばには9系統が整備され、これによって民衆の健康維持と憩いの場としての浴場が建設された。民衆の娯楽とストレス解消の場として競技場と闘技場が建設され、競技場は、戦車競技の場所に、闘技場は剣闘士や猛獣の戦いの場所になった。ラッセル・クロウ主演の映画「グラディエイター」(2000年公開アメリカ映画)で当時のこの光景を見ることができる。ローマのコロッセオは5万人が収容可能で、現在の屋根付き球場はこれをモデルとして建設されたものである。このローマ帝国はゲルマン民族の侵攻により476年に滅亡し、都市ローマは生命線の水道が破壊され、フェロ・ローノは廃墟と化し放牧の場となっていった。人口は減少の一途をたどり、水利の良いテヴェレ川流域周辺のみが市街地となっていった。

 

2.キリスト教徒の首都ローマ

帝国の衰退とは別に、ローマでキリスト教は浸透していった。すでに313年にコンスタンティヌス帝はミラノ勅令によりキリスト教を公認し、サン・ピエトロ寺院はじめキリスト教会を創建した。7Cになるとゲルマン民族のキリスト教化が進み、時を経て15C初頭には教皇ニコラス5世は、古代の水道の復活とサン・ピエトロ大聖堂の再建を行い、ローマ再興を成し遂げた。ミケランジェロによる集中式のドームとベルニーニの列柱広場は、サン・ピエトロ大聖堂をキリスト教徒の聖地にしていった。トム・ハンクス主演の映画「天使と悪」(2009年公開、アメリカ映画)では、この大聖堂が舞台として使われている。ただ、この寺院の建設資金の一部を免罪符で補ったことから、マルティン・ルターの批判を浴び(1517)、宗教改革が行われ、キリスト教は、カトリックとプロテスタントに分離した。対抗措置としてカトリック側の反宗教改革運動もおこり、民衆に神の威厳を知らしめる信仰を深めるため芸術が用いられていった。イエズス会のイル・ジェズ聖堂は、彫刻、絵画、建築が一体となった空間演出で人々の心を捉え、バロック芸術を誕生させた。こうした演出的空間形成は、都市空間に於いても行われ、カンピドリオ広場、スペイン広場、トレビの泉、ナヴォーナ広場は建築、広場、階段、泉、彫刻を組み合わせ空間演出をしたもので、バロック的都市空間として観光の名所となっている。マルチェロ・マストロヤンニ主演の映画「甘い生活」(1960年公開、イタリア映画)は退廃したローマ上流社会を描いた作品だが、アニタ・エグバーグのトレビの泉に入るシーンは一躍、この場所を有名にした。16世紀末になると、シクトゥス5世はカンポ・マルッティオ地区を中心に都市整備を行いバロック的な空間を生み出していった。特に、オベリスクなどランドマークの設置とヴィスタの形成、そのための街路の整備はローマの都市全体に演出効果をもたらしていった。ポポロ広場は、3つの軸線となる道路が交差するところにオベリククが配置され、その交差する場所には双子の教会が建設されている。こうした都市の劇的な演出方法はバロックの都市空間として、その後、パリのオスマンの都市改造に大々的に導入されていった。

ナポレオンのイタリア侵攻を経て、都市国家に分かれていたイタリアは1861 年に王国として統一され、1870年にローマはその国家の首都となった。その後、1922に国民ファシスト党結成が結成され、ムッソリーニの独裁政権が発足した。彼は、かってのローマ帝国の威信を再生するため「新ローマ帝国宣言」を行い、1931年からローマ改造に着手し、象徴的な都市軸や都市空間の建設のために、住民を郊外へ強制移転させ市街地の中の古い建物を破壊していった。その代表的なものの一つがフェロロマーの一部を破壊したインペリアレ通りの建設である。都市建設にも着手し、1942年に開催するローマ博覧会の会場として新都市EUR(エウル)の建設を推進した。ムッソリーニの在命中には、この都市はできなかったが、戦後、完成したこの新都市は左右対称の都市空間を基調とする権力誇示のデザインで建設された。映画「甘い生活」はこの無味乾燥な都市空間を描写している。

 

3.統一国家の首都としてのローマ

統一国家の首都となったローマは、1870 ~1970年の1世紀の間に人口は11倍に膨張した。この膨張が歴史的な都市空間の破壊に繋がることを防止するため、 1962年の都市基本計画では、歴史的建築物の外観保存が義務つけられた。ただし、これら建物の内部の改造は規制されなかったことから、外観は維持されたものの内部はオフィスや商業施設に転換していき、住民は流出していった。この内部の破壊を防止するために、1974年の都市基本計画では、オフィス化の制限など建物内部の規制を強化した。しかし、歴史的市街地の保護は、反面、人口を郊外へと追いやった。旧市街地の周囲には計画性の無い郊外開発が続々と建設され、ローマ都市圏は膨張の一途をたどり、現在では、市民の生活は郊外が中心となり、旧市街に住む住民はわずか3%に過ぎない。自動車に依存しアメーバ状に膨張した郊外の都市景観は無国籍な建物で埋め尽くされ、東京や他の国の都市と変わらない。ジャンフランコ・ロッシ監督による映画「ローマ環状線/めぐりゆく人生たち」(2013年公開、イタリア・フランス合作映画)はドキュメンタリー映画として、ローマも郊外は無国籍な、東京やニューヨークと変わるところの無い都市空間、都市社会であることを描いている。郊外居住者で占められる大半のローマの人々とって、中心部の歴史遺産は観光客のためのものに過ぎないのが現状である。

 

 

 

バルセロナ編

 

サロンちらしバルセロナ版バルセロナ講義風景

 

テーマ:「バルセロナの都市と美術」

講師:昭和女子大学大学院 教授(専門 スペイン近現代美術史) 木下 亮

日時:2016年6月4日(土)17時会場 18時開講(60分講座)

場所:レストラン「Cafe TAMAE」

主催:一般財団法人川崎新都心街づくり財団

 

【講義要旨】主催者が、テープ録音を元に講義の主要な内容を文章にまとめたものである。

 

 

最初に、バルセロナ市街を上空から撮った航空写真を見ていただきますが、写真の中央にサグラダ・ファミリア聖堂があります。スペインの人口は、一昨年のデータで4600〜4700万人くらいですが、その16%ほどにあたる750万人余りがカタルーニャ自治州に住んでいて、その州都がバルセロナです。都市人口を比べれば、マドリードが300万人台、バルセロナが160万人台で、2対1くらいです。バルセロナは商業が活発で、実務的な雰囲気がある反面、芸術も盛んです。逆にマドリードの人たちは見栄っ張りで、貴族的な文化が残っていると言われます。また観光に関わるある調査では、世界で一番写真に撮られる街というのがニューヨーク、2番目がパリ、バルセロナは3番目だそうです。カタルーニャは、最初スペイン中央部とは異なった歴史を有していましたが、やがて政治的にスペイン国家へと統合されていきました。言語は独自のカタルーニャ語が使われています。本日は固有名詞をカタルーニャ語の発音に倣って書きましたが、今後、日本でも現地読みの表記の定着することが望まれます。

 

バルセロナの街歩きが面白いのは、わずか20分の間に、ローマ時代の城壁を見て、それから今から700年くらい前のゴシックの建物を眺め、さらに歩くと、100年くらい前にガウディが作った世界遺産に出会い、そして現代建築すら体験できるからです。

バルセロナでは、古い町の城壁を撤去して、イルダフォンス・サルダーの都市計画案により碁盤状の新市街を作ります。彼は、ナポレオン三世のパリへ行って、オスマン知事の行ったパリ大改造なども勉強し、もう一方でイギリスの田園都市の考え方も取り入れて、都市のデザインをしました。碁盤の目は、1ブロックが114m、道幅が20mです。新市街と旧市街の境にカタルーニャ広場があり、ここから一直線にグラシア通りが延びており、この通りに面して世界遺産であるガウディのミラー邸があります。数ブロック戻ったところには、バッリョー邸や、このあと説明する主要な建物が集まっている一角があります。

ガウディは1852年に生まれていますが、彼よりも3歳年上のリュイス・ドゥメナク・イ・ムンタネーという建築家や彼より後の世代で、ジュゼップ・プッチ・イ・カダファルクという建築家がいます。ガウディは社会的な活動をあまりしていませんが、ドゥメナク・イ・ムンタネーやプッチ・イ・カダファルクはオフィシャルな建築を手掛けると共に、政治的・文化的なオピニオンリーダーとしても活躍しています。今から120年前の建築というのは、カタルーニャ語でムダルニズマ建築、スペイン語ではモデルニスモ、英語ならばモダニズムに相当する言葉ですが、この芸術運動のなかで3人の建築家はほぼ同じ時期に競い合い、そしてまた活躍していました。

グラシア通りには、ドゥメナク・イ・ムンタネーのカザ・リェオ・ムレラという住宅建築があり、彫刻家をはじめ、いろいろな分野の職人たちと協働で建設されました。現在、カタルーニャではムダルニズマ文化を再評価しようという動きがあり、これはフランスのアール・ヌーヴォーと比較することができます。エミール・ガレやナンシーのグループなどと同じ様な芸術活動が展開され、バルセロナでも家具、シャンデリア、ランプなどのインテリア、宝飾品などが、かなり洗練されたレベルで制作されていたのです。

さらにドゥメナク・イ・ムンタネーが地元のオルフェオ・カタラーという合唱団のために作ったカタルーニャ音楽堂は、彼の代表作であり、お勧めの観光スポットです。一方、サン・パウ病院は2年くらい前やっと修復が終わり、これも世界遺産です。ガウディのサグラダ・ファミリアから歩いて15分位の場所にあります。この広大な病院にはたくさんの病棟が並んでいますが、生前にすべて完成させることができませんでしたので、息子に引き継がせています。

ガウディが、最も若い時から死ぬまで手掛けていながら完成できなかった建築が、このサグラダ・ファミリアです。よく紹介されるのが、イエスキリストの生誕を表した東ファサード、受難を表した西ファサードです。復活の栄光を表したメインファサードは、まだ完成していません。ガウディは、このデザインをはっきり残さなかったのですが、むき出しに構造が見えるときに撮った写真を見ると、まるで木のように柱が枝分かれしている。ここにガウディが得意とした放物線のアーチが使われています。聖堂の塔はすべて聖人に対応します。12人の聖人の塔、さらにこの聖堂の真ん中にイエスキリストの塔、それからマリアの塔、4人の福音書記者の塔、全部で18本の塔を建てる巨大な建築物を彼は構想していました。最初にこの聖堂を建てるために就任した建築家が意見の相違から1年で辞め、その後をまだ31歳だったガウディが2代目の建築家として就任して、建設がずっと続き、今は9代目の建築家が引き継いでいる、ここはそういう場所です。彼の終生のパトロンとなったのが、アウゼビ・グエイ。彼のために造った建築は多くが世界遺産になりました。グエイ邸では、ガウディの得意のアーチや素晴らしい鉄の門扉を見ることができます。それから市の北西にはグエイ公園があります。まるで公団の住宅地開発のように丘一つを造成して、そこに一戸建てを60戸建てるという計画でグエイがガウディに依頼しましたが、結局2棟くらい造って、グエイが亡くなってしまいました。非常に志の高い教養のある財界人がいて、それが新進気鋭の建築家に自分の理想を話して建てようとしたのでした。グエイ公園のガウディのデザインで評価が高いのが、カタルーニャ語でトレンカディス(破砕タイル)と呼ばれる、色タイルを砕いたものを再利用し、曲線に合わせて貼り付けた、美しい色彩の広場の装飾です。ここに立つと、地中海が見渡せて非常に気分のいい場所で、ガウディがその住宅地の造成を中断したのち、バルセロナ市に寄贈され、ここも世界遺産のガウディの作品群の一つになっています。

グラシア通りに戻りますが、この通りにはガウディが改築を担当したバッリョー邸があります。プッチ・イ・カダファルクが独創的な建物を隣に建てたので、バッリョー邸の改築がガウディに依頼されたといわれますが、バッリョー邸は外壁の装飾だけでなく、内部にも非常に綺麗なインテリアが保存されています。プッチが設計したアマリェー邸のオーナーは当時有名なチョコレートの工場を経営していました。ベルギーの建物を思わせる北ヨーロッパの建築モティーフを取り込み、自由なリズムで壁面を装飾しています。プッチが若い時に造った代表的な作品です。ガウディのミラー邸は、彼が手掛けた最後の住宅建築になります。柱で躯体を造り、外壁であそぶという意味ではもっと徹底していて、壁が波打っています。楕円形の中庭が2つあって、屋上もうねっています。屋根裏にあたる一番上の階は、煉瓦を積み上げていろいろな高さのアーチが組み合わされていて、現在ガウディ・ミュージアムになっています。

 

スペインは、ローマ帝国崩壊後、西ゴート族が移動してきてキリスト教の信仰が広まりますが、8世紀初めにジブラルタル海峡を渡ってイスラム教徒が侵入し、イベリア半島はほとんどイスラム勢力が支配することになりました。15世紀末、アルハンブラ宮殿がキリスト教徒の手で無血開城されるまで、スペインはイスラム教徒とキリスト教徒が共存するという非常に珍しい長期にわたる中世を経験します。カタルーニャは早い時期にイスラム教徒を追い出したので、スペインの中では一番イスラム的ではない場所です。最初はフランスの王家との関係が強く、やがてフランスによる直接統治が弱まった後は、バルセロナ伯爵領(辺境領)として貴族が治める場所になりました。

カタルーニャの人たちが繁栄した中世というのは、カタルーニャとアラゴンが一緒になっていて、地中海のマヨルカとかイタリアの一部までも統治していた時代をさします。これが、彼らの栄光の時期で、バルセロナもゴシック時代の大きな館が作られました。例えばピカソ美術館が入っている建物などは、みな中世の貴族たちの館なのです。

15世紀後半のスペインの国家統一の過程で、アラゴン・カタルーニャの王国はカスティーリャ王国に組み込まれてしまい、さらに16世紀からハプスブルク家がスペインを統治し、マドリードに都がおかれました。ハプルブルク家はオーストリアとスペインと両方あったのですが、スペインの方は200年で断絶し、誰がスペインの王位を継ぐかということで、ヨーロッパ中が戦争になります。これがスペイン継承戦争で、フランスのブルボン家はスペインの王位継承権を主張しますが、オーストリアのハプスブルク家は反対し、オランダ・イギリスも反対します。カタルーニャはこの時にハプスブルク側につき、フランスのブルボン家に反旗を翻します。この戦争に負けた結果、バルセロナには星形の軍事施設が作られます。これはブルボン家が反逆者のバルセロナ市民を見張るために建てた要塞(シウタデリャ)で、1869年まで存続し、その後、スペインで19世紀に開催された唯一の万国博覧会の会場になりました。

 

3人の建築家のなかで一番若いプッチ・イ・カダファルクが設計したカザ・マルティの1階に「4匹の猫」というカフェが開店しました。芸術家が集まって発信するというヨーロッパのカフェ文化の場所で、1897年〜1903年の6年間営業し、ピカソは17歳のとき初めて店を訪れ、常連となります。「四匹の猫」の創設者は4人います。ラモン・カザスは画家でイラスト、ポスターなどの作家。サンティアゴ・ルシニョールは画家かつ劇作家。ミケル・ウトリーリョは美術評論家。ペラ・ルメウはこの店のオーナーです。彼らの共通点は、金持ちの息子で、若いころにパリに滞在し、パリのモンマルトルの芸術を吸収して、そのコスモポリタンの雰囲気をバルセロナにも伝えたいということでした。彼らは、2つの都市を行ったり来たりしていました。バルセロナでは1880年代くらいから、美術協会ができ、芸術家たちのサークルができ、美術展が開かれるようになり、地元の美術館ができ、19世紀の終わりは、文化の環境が整ってくる重要な時期です。ただし、ガウディは「4匹の猫」には、ほとんど来ていないはずです。20世紀初頭に撮られた店内の写真を見ると、ラモン・カザスが描いた二人乗り自転車の絵が目を引きます。自転車の前に乗っているのが画家本人で後ろのひげ面が店のオーナーです。この場所は、ピカソの生誕100年(1981年)に復元されて、現在もレストランとして使われています。最も年下だったピカソがここで学んだことは、パリへの憧れであり、そのためには何をしたらいいかということであり、ピカソは年上の友人たちから可愛がられていました。お前は才能があるという評価を得て、ピカソは新しい世代の中心になっていき、この「四匹の猫」で最初の個展を開きました。ウピッソというピカソの仲間の一人が描いた絵には、ペラ・ルメウとその脇に18歳くらいのピカソが並んでいます。ウピッソは画家としては大成していませんが、この時期、ガウディの製図引きをしていました。ガウディとピカソの活動が重なる時期です。ピカソは「青の時代」と呼ばれる時期にバルセロナからパリに行き、最初は売れないが直ぐに支援者がつき、1904年から彼はパリに定住します。

 

国立カタルーニャ美術館は中世美術に関して世界有数のコレクションを誇ります。ここは1929年万博のマスタ―プランを見ると、スペイン館だったことが分かります。この1929年万博は、ひとつの時代の終わりを示しています。この万博でドイツ館を担当したミース・ファン・デル・ローエが水平と垂直の平面で構成する新しい建築を提案し、以後の20世紀の建築に大きな影響を与えます。装飾過多の芸術であるムダルニズマは、しばらく忘れさられることになります。

1992年にバルセロナ・オリンピックが開催され、バルセロナの街は綺麗になります。ハビエル・マリスカルは、ピレネー犬の「コビー」をデザインし、オリンピックのマスコットとして提案しました。かつて要塞(シウタデリャ)を作るために住民を海岸側へ追いやった場所はバルセロネッタと呼ばれるところですが、92年オリンピックのときに再開発されました。現在は浜辺に沿ってお洒落なカフェテリアやレストランが並び、素晴らしい場所になっています。またビルバオのグッゲンハイム美術館を設計した建築家フランク・ゲーリーは曲線を使った「魚」というユーモラスな作品を、日本の磯崎新もサン・ジョルディ・スタジアムを設計しました。

最近バルセロナに行って新たに感じるのは、古い建築物を壊さずに残して未来に存続させるという試みが数多く行われているということです。例えば旧市街の市博物館に行きますと、地下にローマ時代の遺跡が掘り返えされていて、ガラス張りの床を歩きながら古代を探索する場所になっています。あるいは、要塞(シウタデリャ)を壊した後にボルンという大きな市場が誕生しましたが、その市場跡の修復保存の際もその地下を発掘してバルセロナの歴史の層を見せる場所に生まれ変わりました。

海の近くにそびえるペンシル型の現代的な建物は、バルセロナ市の水道会社の社屋です。汐留の電通ビルの設計を行ったフランスの建築家のジャン・ヌーベルの作品です。様々な時代の建築物を再生させ、なおかつムダルニズマ建築で終わるのではなく、さらに新しい建築物を取り入れていくというのがバルセロナの面白さだと思います。

FCバルセロナ(愛称:バルサ)は、1899年にできていますが、なぜバルセロナとマドリード戦が盛り上がるかというと、マドリードと異なり、バルセロナは不利な状況で戦い続けてきたのです。とりわけフランコ時代、バルセロナは苦労をしています。彼らは自分たちの会員で支えているサッカークラブなのだという自負があるのです。

1898年2月に撮られたサグラダ・ファミリアの写真には、石を積み上げる工法で建設中の聖堂が写っています。バルサの誕生した頃の時期であり、当時、旧市街で「4匹の猫」は開店していて、郊外の街はずれにこういうものがあったということです。

1926年といえばガウディが亡くなった年ですが、この頃のサグラダ・ファミリアの写真を見ると、生誕のファサードしかできていなかったのです。ガウディが死んだとき、現在のようなものは想像していなかったはずです。ガウディが遺したのは石膏模型だけでしたが、21世紀になると石膏模型のかけらをコンピュータ解析して、どのような聖堂を作りたかったかが段々わかってきて、近年一気に工事が進んだといわれています。

バルセロナ探訪の面白さというのは、単にある時代の文化遺産を見ることだけにあるのではなく、自分たちの文化をどのように提示するか、そのための苦労や努力する様子までもが伝わってきて、さらに市民の熱気すら感じる場所だというところにあります。最後にサグラダ・ファミリア聖堂完成予想のコンピュータ・グラフィックを見てみましょう。ここにはイエスの塔やマリアの塔が再現されていますが、今現在8本しかできておらず、さらにもう10本の塔を建てなくてはいけません。彼らは2026と完成希望の年を掲げていますが、これはガウディの没後100年周年なのです。これまでに完成できたらということなのですが、カタルーニャの人というのは勤勉ですから、これからの10年間がどうなるのか見守っていきたいと思います。

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